| 「ただいま!」 真美だ。 どう言ったものだろう。 なにか言わなくちゃと思うけど、こういうときに限ってなにも浮かんでこない。 「ユウー! ユウちゃーん!」 がらんとした声が、がらんとした空虚のなかをこだましている。ぱたぱた、玄関から娘の近づく気配。 里子はリビングで、不当な死刑宣告を待つ聖者のようにうなだれていた。ひょい、と覗いた真美の顔がい ぶかしげだ。中学の制服を着たまま、顔が少し赤くなっている。走って帰ってきたのであろう。 「どうしたの? ママ、ユウが出迎えに来ないけれど」 白い空気の中に、タイプした声が打ち込むみたいだった。里子はリビングで手を組み合わせた。立ち上が って説明したかったが、力が湧いてこなかった。足がまるで、泥のようだ。 この場合、言葉を取り繕っても意味はない。事実は事実として言わなくては。 「ユウちゃん」里子は声がかれてくるのを感じた。「ガンなんだって」 次の瞬間の娘の貌(かお)は、一生忘れられないものとなった。 発した言葉を取り戻せたら。 だけど事実は事実なんだ。 「……うそ……」 真美はがたん、と手にした通学かばんを取り落とし。 突然、二階に駆け上がってしまった。 この話が、すべて悪い冗談だよと笑って済ませられたなら。 里子は自分の首に手をやった。 でも、それは叶わぬ願いなのだ。 「ユウが?」 仕事から帰ってきた夫は、容易な事では納得しそうになかった。スーツから普段着に替えるために、ネク タイをはずして不思議そうにこちらを見ている。 「だってあんなに元気だったのに?」 「元気そうに見えていただけですって」 ああ、羊子さんみたいに上手に説明できたなら! この舌が、友達との暇つぶしに使われるのではなく、もっと有意義な事に使う訓練をしていたなら、家族 を傷つけずにすむのに。いい気になって家族をこきおろし、人のうわさを言い合って、時間を無駄に費やし てきた。里子は自分の舌を引っこ抜きたくなってきた。 「手術とかで治らないのか?」 夫も私と同じだ、と里子は思った。わずかな可能性でも必死になってつかもうとする。 「たぶん……無理だろうって。苦しむだけだから」 夫はため息ついた。 それから腕時計をちらと見た。 八時過ぎだ。 「真美は?」 「部屋に入ったきり……出て来なくて」 こういうとき、男というのはなんともドライである。決断、責任、義務。社会でそういうものを求められ ている以上はそうなるのが当然なのだろうが、この立ち直りの早さに里子は少し、ねたましささえ感じた。 夫は二階に上がると、扉をノックして呼びかけた。 「真美! ほら支度しろ。ユウを見舞いにいくぞ! お前が行かないと、ユウが淋しがるぞ」 「ほっといて!」 くぐもった声が内側から聞こえてくる。 十五歳、今一番感じやすい時期だ。 夫は再びため息をついた。 「いいんだな? 治療しているときなにかあったら――」 がちゃん! たたき開けるように扉が開いた。 「なにかあったら?」 真美の顔は涙でぐちょぐちょだ。それ以上に、悪い予感でぶるぶると顫(ふる)えている。 「それを確かめに行くんじゃないか」 夫は理路整然としている。 すぐに真美は外に飛び出した。 MF動物病院、と書かれた看板は、一般的なプラスティック式のものではない。レンガの上に赤い字。 血の通った医療をしますってことだ。 そこが里子に頼もしさを感じさせた。専門用語は判らなかったが、羊子さんたちにはこれからもお世話に なりたい。 ウマ先生は相変わらず冷静な口調であったが、その底には温かさが流れていた。 「今のところ安定しています。当面の治療法ですが、いくつかありますので、オーナーさんとの話し合いで、 決めて行きますが……」 里子は、夫がはじめて不安そうに「はい……」というのを見た。 冷静そうな顔をしていても、本当は気がかりなんだ。 生まれて初めて夫のそんな一面を見て、里子はこころに決めた。 私がしっかりしなくては。 「ユウちゃんに会う?」 背後で声がした。振り返ると羊子さんが真美に微笑みかけている。 夫ははっとしたように我にかえった。 「先に行っといで。先生とお話があるから」 声が顫(ふる)えてる。 真美はそれに気づいたのか、少し不安そうになったが、 「さ、こっちよ」 羊子さんに促されるように出て行った。 里子には、この配慮がうれしかった。 扉の向こうで羊子さんの穏やかな声が響いている。 「とってもいいコで入院してるのよ! 誉めてあげてね」 「……はい……」 くぐもった声。 たった数時間でも生まれて初めて別々にされて、きょうだいはどんな思いでお互いを求めていたのだろう。 「まずは……症状緩解のために、ステロイド剤だ」 先生は静かに説明を始めた。 「患畜の不必要な負担を避けるため化学療法はしたくないが、一日でも長くと延命を望むのなら、いろいろ、 治療法を組み立てて、様子を見るしかない」 理屈で来られたら、男としては納得するしかないのだろう。夫は物憂い表情ではい、とつぶやくと、 「とにかく……一番苦しくない方法を取ってやってください。私たちには、もうそれしかやってあげられない」 必死で微笑を浮かべてみせる。 「?家族?が最後にしてやる事は、そうですよね。 先生」 ウマ先生は黙って肯いている。 ステロイドについての説明をじゅんじゅんと説いているウマ先生を隣で見ながら、病院のスタッフ、コウ 先生はこころのなかで考えていた。 終末ケアはこれからどんどん増える。ペットの高齢化もある。ペットのホスピスもMFにあっていいので はないか。 確かにそれでなくても忙しいけれど…… ちゃんと先生に提案してみよう。 ☆ 自宅で療養しましょう、と提案されたので、いったんは戻ることにした。 はぐっはぐっはぐっと、ユウが家に上がりこんで大興奮状態。 「さー、ユウちゃんお家に戻れたよーっ。こらこらそんなに慌てないで」 止める間もあらばこそ、ユウは奥にすっ飛んでいく。そこにはペットフードの入った食器が用意されてい た。病院で出たものなど食べたくない、というのは人間と変わらないようだ。夢中になって食事を採って いる。 「ははは、ゴハンの場所に一目散だ」 夫はなにかのCMにでもなりそうな笑い声をあげている。 我が家にユウがいるのといないのでは、こんなにも雰囲気が違う。 帰ってきた。やっとうちに。 「しばらくは、ユウ中心の生活だな!」 夫は今思いついたみたいに言った。 「お父さん! あんまり飲んで帰って来ないでよ」 娘がびしっと腰に手をやった。 そっかー、しまった! とおたおたしている夫と、まるで幼児のいたずらをみつけた園長先生みたいに腕 を組む真美の姿に、思わず里子は笑ってしまった。 大事にしなくては。 あと少しの?四人家族?を…… 治療が必要なので、旅行もしばらくの間お休みになり、当然だが激しい運動もしなくなった。 その代わり、ユウの好きなもの、好きなことは無条件でする。 ボール遊び。 スリッパをかじること。 かくれんぼ。 それに…… 「真美―。ユウにアイスクリームあげたわねー。口の回りがベトベト」 里子がユウの口をタオルで拭きながら真美にさとす。 「だって好物をあげなさいって、――先生が」 真美は抗議した。 犬に甘いものをやっていいのかどうかはともかく、里子には言いたいことがあった。 「ママもあげたばかりなのよ」 恥ずかしそうに顔を伏せると、真美は「あ、ずっるーい!」ぷくっと頬を膨らませ、それからくるりとユ ウに向き直った。「ユウ」 ユウのほうは無邪気そうな顔をして、きょとんとしているばかりだ。 このコは賢いから、死期が近いことも知っている。そう思い至ると、いたたまれなくなってきた。 ああ、ユウ。 私たちは、かえってむごいことをしているのかもしれない。 月日は待ったなしで過ぎ去っていく。 ガンも待ったなしで進行していく。 ある日の夜、ユウが激しく泣いている声で起きてしまった。 それは、太古の昔に荒野で取り残された狼がのたうちまわり、息がつまるような声なのである。 起き上がってユウのいるはずの廊下に行くと、すでに女の子が一人、正座を崩して両足を放り出す体勢だ。 見覚えのあるパジャマである。 「真美」 娘は暗い闇の中で、はっきり判るほど青ざめていた。 「さっきから淋しそうに泣いてるから」 そっと頭に手をやる娘の気遣いが、里子にはうれしかった。 「ありがとう」 ユウはぎろぎろした目で、床から見上げているが、二人には、どうすることもできない。 「お薬が効かないのね。どっか苦しいのかもしれないね」 娘が、声におびえたような狼狽をふくませて小声で言った。 そうだとしても、私たちにはどうすることもできないのよ。 「真美は、もう寝なさい。学校あるでしょ」 冷たい言い方だっただろうか。そうかもしれないし彼女は仮にも母だ。娘と一緒におろおろしているわけ にはいかないのである。 悪くなる可能性のあるものは、すべからく悪くなるという。事態は思った以上に悪く展開していった。 自分のトイレすらできなくなり、下痢と便秘を繰り返す日々。 それを恥じ、隠そうとするユウのいじらしさが、里子には悲しかった。 「いいの。汚くしていいのよ。立てなくていいから」 自分の始末くらいきちんとする、とまるで寝たきりの老人が涙を浮かべて感謝するように、何度も何度も 泣いている。 この声は、夢にまで出てきそうだ。 食も細くなり、次第に痩せて…… 感覚も鈍くなって行ったユウ。 あばら骨が見える腹、白かった毛はどこか疲れたようなオフホワイト。その毛もいずれ抜けていって。 呼んでも耳を立てるだけ。 足はすでに、添え物になっている。 それでも、自分がまだ役に立てるというふうに、必死で尻尾を振っている。 とうとう、食事ができなくなった。 「自宅療養は、もう限界だわ」 家族が抱え込む重荷。それはユウの重荷でもある。 たったひと月でユウは病院に戻ってしまった。 「また明日、会いに来るからね! ユウ……」 私は、ケージのなかに入っているユウに語りかけた。 「ママが側にいるから。毎日来るからね」 約束は、きっちり守った。 付き合いが悪くなった、と友達から言われても。 たかが犬でしょといいたい放題の義母にも。 この気持ちは止められない。 すっかり、病院の人に顔を覚えられてしまった。 一週間くらいしただろうか。 「石田さん、先生からお話が」 羊子さんがMFのエプロンをしたまま、ケージの側にいる里子に話しかけた。 ついていくと、例のイタリア少年のような先生が。 先生は、あることを提案した。イタリア風の明るい顔とは、似ても似つかぬ残酷なことを。 「えっ! 食道に穴をっ?!」 里子は思わず叫んだ。 「栄養補給のためです。点滴パックでは限界がある。鼻カテーテルは苦痛も伴い、嫌がる犬もいて」 コウ先生は少しうわずった声で言った。なんというか、今ひとつ頼りない感じ。ずっとカルテに書き込ん でいる。 「食道に管を通すのが一番楽な方法で」 ふと、思いついたように、 「あ、簡単な手術ですみます」 里子は想像してみた。食道に穴の開いたユウ。食事を食べられないユウ。だけど、だけど、だけど。 「もし……そうしないと……」 コウ先生はちょっと改まった表情でこちらを見つめた。 「むやみな延命を避けたいと言うのであれば……」 「――いいえっ」 里子は、まるで燃え盛る火かき棒で殴られたみたいだった。 死は。 できるだけ避けたい。 ユウちゃんがいなくなる、あの妙な空気感はたえられない。 「お願いします先生。それで苦しくなければ…… 最善の方法なら」 深く、お辞儀をした。 「だんだん管だらけになってくね……」 真美は、おぼつかない口調でケージの中を眺める。 夫の表情は見るも痛々しかった。 ユウの姿は、もはや「家族の一員」というより、なにか不気味な実験動物を想起させた。暖かな現実から 切り離された、どこか違う世界の違う生物で、妖術で生きているみたいな。 見舞いに来るたび、静かに見つめるだけ。 里子はそっとケージにもたれかかった。 誰も言葉には出さないけれど、きっと思ってる。 もう?楽?にしてあげてもいいのではないか、と。 横たわっているユウは、もう、ぼろぼろだ。吐く息はたまねぎが腐ったようになり、しかも浅い。 安楽死?。 でも言えない。 ――その一言は、とても重い。 生死を決める権利は 誰に? どこにある……? ねェ…… どうしたい? ユウちゃん。 怖くて誰も…… ☆ いつからか…… 里子は哀願するようにMFスタッフを眺めてしまっている自分を意識した。 何を願っているのか、自分でも判らない。 何を怖がっているのか、自分でも判らない。 判りたくない。 無意識に握り締めた両手に気づくたびに、慌てて背後に回して、なにごともなかったように微笑む。 ずるずる。ずるずる。 現実の砂穴にひきずりこまれる蟻のように、落ちていく感覚。 しがみついても、しがみついても、どこか冷静な心の声が耳について離れない。 決断しなければ。 だけど……どうやって。 そして、いつ。 年老いたわが子に対して、なにをしてやれるというのか。 何もできないことを実感するためだけに、今日もまた見舞いに来てしまった。 「こんにちは」 羊子さんは、里子の顔を見るなり、 「あー、どうぞ」 腰を上げてケージのところまで案内してくれる。 「相変わらず……ですか?」 「そうですね」 何気ない会話をしている里子の脳裏に。 頬が痩けてるユウちゃんの、あの惨めな様子がよぎった。 自分で立つことさえできず、涙を浮かべていたユウちゃん。 尻尾をよわよわしく振り、元気なふうを装っているユウちゃん。 が。 ケージの中のユウちゃんは、まるで拷問機にかけられているように、びくん、びくん、びくん、ともだえ ている。 「ユウちゃん!」 思わず悲鳴をあげたとたん、羊子さんが治療室にダッシュした。 「先生! ユウちゃんが……またケイレンを!」 ――また? 里子は、羊子さんが決して口外しなかった事実を、そこで嗅ぎ取った。 先生に対して、涙が出てくる。 ユウちゃんのこと、そんなに親身になって看病してくれたんだね。 助けを求めるようにウマ先生を見上げると、 「腎臓障害がひどくて、尿毒性ケイレンを起こすんですよ。心臓も肥大して、ギリギリ動いてる」 先生は、半分以上判らない言葉を並べている。 「それに圧迫されて横隔膜が上下できないから、とても苦しい呼吸にもなる」 最初と途中の説明は判らなかったが、最後のあたりはよく判った。 「苦し……い?」 初めに感じたのは、?もう、そんなに……?という、半ば予期していた感情であった。 それが最善だと信じて、治療を続けてきた。 それが…… それが、本当によかったのか。 よく判らなくなってきた。 羊子さんもイタリア青年も、顔をそむけ、体中に拷問を受けてるという表情で唇を噛んでいる。 何とかしないといけない。 だけど、その決断をするのは…… 誰。 息がつまる。 「いかに……長く生かすか、だけでなく」 先生は静かに語り始めた。「いかに、らしく尊厳を持って死ねるか――を、いつも考えるよ」 はっ。 として、里子は先生を見つめた。ウマ先生はじっと、魂をゆさぶるような眸で見つめている。 「我々の仕事は、助ける事を前提として成り立っている。延命はある意味、その尊厳を対角に追いやってい るかもしれないね……」 目の辺りに痛みをともなう涙を感じ、彼女は思わず顔を覆った。 「先生……」 「だから、?尊厳死?と言う、最後の治療法があってもいい、と思ってる。オレは」 怖くて触れなかった現実は、ウマ先生がかわって静かに払いのけてくれた。 「ありが……とう、ございます」 里子はしずかに最敬礼した。涙が流れて止らなかった。 「どうかこれ以上……このコの尊厳を傷つけないで……やって……逝かせて、あげて、ください」 決断をするきっかけを。 そして痛みをわかつ思いやりを。 ありがとう、ウマ先生。 里子は、ユウのいる酸素室に手を置き、そのまま泣き崩れていた。 ☆ 尊厳死の手続きに入ることになった。 「え? 麻酔薬だけを……?」 麻酔薬ってなんだろう。里子は混乱気味である。 「はい」 羊子さんは暖かい声で、静かに告げた。 「ユウちゃんの場合、弱っているし、高齢であるし、大量投与で深い深い眠りのまま……少しも苦しまず」 麻酔薬がどういうものなのかは、彼女にはよく判らなかったが、少しも苦しまないのなら、それが一番い いのだろう。 なにより、安らかな眠りを約束されている、という点が彼女のためらいを取り払った。 ユウは酸素室の中で、弱々しく泣いている。 ――もう、いい? すごく眠いよ、ママ。 もう、いいでしょう…… 里子は、点滴のなかに麻酔薬を混ぜることを、あらかじめ知らされていた。家族のものへは、すでに連絡 を入れている。 臨終には、間に合わないだろう。 それは、仕方がないことだ。ユウは疲れているし、点滴の秘密を悟られるわけにはいかなかった。 私がついてるわ、ユウ。 ――眠っていいよ、ユウ。 ユウはかすかに微笑むように、口を少しあけた。よかった。 ――いいよ、ユウ。 ユウは、ひとつ、大きなため息をついて。 よかった。 とつぶやくように一声泣くと、そのまま、息を引き取った。 きちんとしたお別れをするのは、家族として当然だった。 真美と夫は、小さな白い箱の中に入れられたユウの遺骸と沢山の花を覗き込む。 「よかったね……もう、苦しまなくていいんだね」 「静かに眠ったんだ……良かった」 二人は私の決断を知らない。 それでいい。 私が一人、かかえればいいこと。 里子は二人を見ながら、そっと胸に手をやった。 ユウの?尊厳死?は私の秘密。 それが、いいのか悪いのか、答えは出るものではないのだ。 答えは、残されて生きていく者が、一生かけて捜して行く。 色々な答えを、いろいろな思い出の中に、捜していくんだ。 子犬だったユウが、円形のソファの上できょん、となって座り込んでいた、あのころ。 スリッパや蝶と戯れている思春期のユウ。 早く散歩に連れてって、とねだっているユウ。 幸せな十六年間が、苦痛の末に終わるなんて、そんな現実には耐えられない。 だから私は後悔はしない。 だってそれは、ユウの尊厳を傷つけてしまうことなのだから。 2003.12.3完 |
||