「眠りの精」  二○○三年十月二十九日 起稿

MYフレンド動物病院日誌  ノベライズ

                          作 岡野 なおみ



  病院がこんなにフレンドリーでいいのだろうか。里子は困ったように治療台の上のユウを眺めた。
 看護助手は唇に暖かな笑みを浮かべ、語りかけるようなまなざしでそばに立っている。きれいな髪を肩ま
 でのばし、白い機械的な看護服ではなく半そでの活動的なシャツを着ている。無地のあわい緑色。
 ドクターの顔は厳しいが、眸の奥には抑えがたいフレンドリーさが光っている。白衣もきりりと凛然たる
 ものだ。
 イタリア風の男の子が、あたふたと走り出て行った。遅刻ぎりぎりの小学生のようだ。悪いけどスタッフ
 とはとても思えない。「コウ先生」先生というより写真家を目指す売れない画家という印象。
 久々の同窓会に出るつもりだったけど、この四万円の豹柄のワンピースにスカーフ姿は、この庶民的な病
 院内ではちょっと浮いている。
 ふと、看護助手の表情が変わった。
 先生がレントゲンを出すように指示したからだ。
 現像したての写真が現れる。
 ぺろり、とそれを白く光るボード(ザウカステンというらしい)に貼り付ける院長先生。
 病院なんてここ十何年も縁がなかったので、動物病院ならどこでもいいだろうなんてノンキに構えていた。
 ――だけど、こんなことになるなんて、誰も教えてくれなかった。

「わかるか? ここ」
 先生はじっくり観察した後、白く光る写真の一部を示した。
「ハレーション起こして白く写っている」
 たしかになんとなく、白いおおきな雲のようなものが見える。
「腹水だ」
 先生は職業的な口調だ。
 残念ながら里子には読影の技術はない。突然専門用語が飛び出してくると、頭の中が混乱した。
 もっと簡単な病気かと思っていた。このところ下痢が続いたのはたとえば、チョコレートを食べさせたた
 めでしょう、甘いものを食べさせちゃいけません、とかなんとか。
 ふくすい。
 知らず知らず、口元に手をやっていた。息が苦しくてならない。
「つまり、あの……」
 口の中がカラカラになるのを感じた。
「どういう事ですか?」
「ガン性の腹膜炎」
 きっぱりとウマ先生が言い切った。
 突然、たちくらみのようなショックが襲ってきた。
 ガン。
 世界が揺らいでいた。
 ガン。
 あらためて、台の上のユウに目をやる。
 ユウは十六歳になるミックス犬。
 白い毛の生えた、おとなしい子である。
 ガンなんかになる、そんな子じゃない。
 そうよ。
 今日はエイプリル・フールなのよ。
 季節外れのエイプリル・フール。
「リンパ節も肥大。肺にも影……残念だけれど、いいところは一つもない」
 ウマ先生は落ち着いた口調で診断の根拠を教えてくれる。
「だって……」里子はのどをごくっと言わせた。それから、もういちど唇をなめた。
「ゴハンもちゃんと食べていたし、ガンならもっと――やせて……」
 声がかすれているのが判る。
 しっかりしなくちゃ、みっともない。そう思う一方で、のど元に熱いものを感じる。
 テレビで見たガンの動物とうちのユウは、あきらかに体格が違う。
 診たて違いだわ、そうよ、決まってるわ。
「痩せるのは一番最後」
 ウマ先生は深みのある声で静かに説明した。
「太って見えていたこの腹は、腸の通過障害が起きて、ガスがたまりやすくなっていたからだ」
 言っていることの半分以上は理解できなかった。というか、理解したくなかった。
 今の今まで気がつかなかったのが不思議なのだ。
「あ……」
 思い当たることがたくさんあった。
 散歩で走らなくなった。
 猫を見ても無関心になった。
 いつもだるそうだった。
「私のせい?!」
 そうだ。もっと気をつけていれば、初期のうちに。
 あたしは、この子のことを何にも考えてなかった!
 いきなり茨のとげが刺さるように、胸の奥がずきりと痛んだ。
「いいえ」看護助手がそっとユウの背中に手を置いた。「わかりにくいんですよ。ギリギリまでみんな頑張
 っちゃうから…… ご主人にいいところ見せようと思って!」
 ユウ。
 ごめん。
 あたし、悪いママだよね。
 涙があふれてくるのを感じた。
 しかし彼女は、これから始まる、辛い、もろもろの選択を決断していかなければならないことを、まだ理
 解していなかった。
 看護婦助手である羊子は唇をかみ締める。
 ――でも、それは避けられない飼い主の最後の役目。
 この人を支えなくては。
 ペットの死を、ぜんぜん経験していないと言えば嘘になる。私たちにとっては日常でも、彼女にとっては
 特別なのだ。だから、私は冷たい態度を取りたくない。
 泣きじゃくる里子を見ているうちに、彼女は手を握りしめて、見えないように祈りの形を取った。
 少なくとも、この人は逃げ出さなかった。その服装を見れば、出かける途中だったことくらいは予想がつ
 く。飼い主のなかには、病院に動物を置いたまま遊びにでかけて、夜遅くまで帰ってこない人もいる。彼女
 とは雲泥の差だ。ガンと聞いたときに現れたあの表情は、どんなにユウを愛しているのかを物語っている。
 誠実さと責任感。この二つをきちんとわきまえている。
 この人のために、私も手伝わなくちゃ。
「何をしてあげればよいか、一緒に考えてあげましょう ――ね。
 ユウちゃんのママ」
 一緒に考えなくちゃ。
 だってこの人は、それだけの価値のある女性なんですもの。
 里子はハンカチを取り出した。
 ユウちゃんの、ママ。
 じっと羊子を見つめる。化粧がぐちゃぐちゃだ。
 時は過ぎ行く。泣いてる時間なんてない。
 彼女は涙を拭いて二人に向き直った。
 そして決まり悪そうにもじもじした。
「今、できる事は対症療法だ。いかに苦痛をなくしてやれるか……」
 ウマ先生は何事もなかったよう。
 里子はニガウリを食べて礼儀上それが苦くないと言っているような表情になった。
「はい」
「二、三日入院して、容体が安定したら一時退院も出来るかもしれない。
 家が一番なのだから」
「はい」
 里子は、ほとんど上の空でつぶやいた。
「はい……」


  ☆



 ほとんど夢遊病的に車を飛ばして帰路に着いた。同窓会なんて、放り出して。
 交通量の多くない住宅地に住んでいてラッキーだった。もし中心部に住んでいたら、交通事故を起こした
 に違いない。
 ――ユウが……いなくなる。
 家の中に入った。
「ただいま……」
 がらん。
 ここ、こんなに広かったかしら。
 里子はぼんやりと見回した。
 玄関からすぐ見える応接間、右手に曲がるとリビングで、階段はその隣。額縁はジグソー・パズル
「一○一匹わんちゃん」。パソコンは二階にある。アルミサッシから夕暮れの光が差し込んでくる。
 庭つき一戸建て。手に入れるまでは大変な苦労だった。
 その家でいつも待ってくれてたユウ。
 尻尾を振って、よだれだらだら垂らして。
 爪が出たまま歩くから、畳がささくれだって大騒ぎ。
 台所はフローリングだからいいけど、小さいころは廊下で滑ってみごとなスケート。
 思い出すなり笑ってしまった。
 その笑い声は、リビングの中に吸い込まれるように消えていった。
 妙な感じ。
 空気が動かない。
 ユウの気配がないこの家は、なんだかよそよそしい。
 まるで時間が止まったようだ…… 
 カラリ。
 サッシを開けてみる。
 視界に広がるのは、芝生やプランターの花たち。
 トマトを植えた庭までがどこか、そっけない感じがする。
 老犬なんだから、いずれ先に別れがくると覚悟は決めていたけれど。
 あのコがいなくなるって、こういう空気感……
 不意に、彼女は冷たい死の指先が自分に触れるのを感じた。
 寒い。
 背中からうなじにかけて、蛆虫がはいまわるような感覚が走った。首の毛が逆立った。
 そのとき。
 ――何をしてあげられるか……
   一緒に考えてあげましょう。ユウちゃん――ママ。
 心臓のあたりで暖かい声が響いた。
 羊子さん。
 そう。
 ――私はママ。
 庭に面したキッチンに目をやった。
 いつものペット用食器。水とドッグフードが少し入っている。
 小さな茶色の餌を見ていると、改めて羊子さんの暖かな笑みが思い出される。
 ――ママ……なのよね私。
   本当に。
 ユウの食べ残したドッグフードの食器を取り出して、じっと見つめると。
 鏡にうつる虹のように回想が広がった。



 あのコが初めてここに来た日の事。
 今もしっかり、思い出せる。
 小さな段ボールの中で、半分口をあけてニコニコ笑う。
 白くてちっちゃくて、月並みな表現だけどぬいぐるみのようだった。くう、くう、くうとまるで鳩が鳴い
 てるようで。そりゃあ、もう、かわいかった。目の中に入れても痛くないって、あれ、本当かもしれない。

「どうしたの?! その犬」
 だけど、第一声はこんな言い方になってしまった。責めてるわけじゃない。ちょっと驚いただけ。
 だけど夫は、かわいそうなくらいおたおたして、
「ペットショップの前通りかかったら、もらい手を捜していたんだよ。
 最後に残った一匹らしくて、子供が泣きながら助けてやって欲しいって」
 真っ赤になってムキになって説明する彼の顔が、私にはちょっと可笑しかった。
「このままだと保健所に連れて行くしかないって。
 そんなのひどいだろ、こんなに可愛い犬をさっ!」
 まあ、あなたったら! それじゃほとんど小学生が先生に、必死でいたずらの言いわけしてるみたいじゃ
 ないの。
 でも、私はそんな彼がいとおしくてならなくて。
「男の子?」
 まずは確認。黒いつぶらな瞳が、訴えるように私を見つめてる。
 持ち上げてみると、思ったとおりというべきか、異様に軽かった。
 くうん、くうん。
 甘えるような鼻声に、私はもう、これ以上ツンケンしていられなくなった。
「じゃあ、我が家の長男ね」
 夫は見るからにホッとした。
 私はそっと抱きしめた。
 このコは親を必要としていて、私は小さな命が欲しかったのだ。



                 ☆



 私たち夫婦には、子供が出来なかった。
 結婚七年目に、私たちは静かに話し合った。
「子供はあきらめよう……」と。
 執着から解放されようと。
 多分仔犬を連れてきたのは、夫のそんな決意から……



 夫婦だけの生活を、それを自由な選択の一つであるかのように楽しげに暮らしている人もいる。
 そういう生活にあこがれて、わざとセックスしない人もいるとかいないとか。
 だけど、私たちは子供が欲しかった。
 家庭には婦人の手と子供の存在が必要だ、と言ったのは誰だっただろう。
 夫婦だけでは、家庭というには不完全だと私も思う。
 日々募ってくる思いに、私たちは必死で模索しつづけ。
 オギノ式を試してみた。
 漢方も。
 ピルも。
 太極拳がいいとうわさを聞きつけて、やってみたこともある。
 全滅だった。
 周りはどんどん子供が出来る。
 三人の男の子に囲まれてる友達、双子のいるお隣さん、どんどん私を置いて世間は動いていく。
 公園で赤ん坊の親子連れを見かけると、親の年齢を思ってしまう。
 あきらめなくてはならない。
 辛かったけど、でもこの犬が、もしかしたら「子供の存在」になるのでは。



              ☆





 改めてみると、このコはもう、耳をかきむしったり、あるいは大きくあくびをしたりとリラックスしてい
 る雰囲気だ。なじみやすい性格なのであろう。それはつまり、いいコだってこと。
 私は……密かに子供につけようと思っていた名前で呼びかけた。
「ユウ……ちゃん」
 ぴくっ。
 あのコが耳を立てて目を輝かせた。
 賢いコだ。
 私は胸にユウちゃんを抱きしめた。
 誰がなんと言おうと、このコは私の大事なコ。小さな未来を運んでくれる青い鳥……いや、白い犬だ。



「今日は横浜のベイブリッジに連れて行くぞ」
 休日になるなり、いきなり夫は私とユウを引っ張り出して、ベイブリッジまで連れて行った。
「ディズニー・ランドは犬はダメ? だとしたら行かないぞ!」
 あんなに行きたがってたのに、ダメと思いこんだら絶対に足を向けようとしない。
 まだ小さいうちからそんな調子で、どこへ行くにも一緒だった。
 通行人に撮ってもらったもろもろの三ショット写真。
 あるときにはボートの中でもう少しで落ちそうなユウと私と、驚いて手を伸ばしてる夫。
 灯台の見える茅ヶ崎で、船を眺めるユウと私たち。
 公園のなかでユウとキャッチボールしている夫と、弁当を広げてる私。
 アルバムに載ってる写真たちは、誰がなんと言おうと?家族写真?だ。


 楽しい時間と言うのは、あっという間に過ぎていくもの。
 ほどなくして私は、強烈な吐き気を感じた。
 ユウが心配そうに私のそばで鳴いている。
 そういえば……
 ここ三ヶ月くらい、生理が来ない……

「うそだろ……だって」
 夫は顔を輝かせた。「えっ!」
 朗報を聞きつけるなり、飛び上がって喜んだ。
 いきなり夫は義母に電話して、一気に喋りまくしたてた。普段あまり多弁なほうではなかったのに、ユウ
 が来たときと同じくらいはしゃいでいる。義父はすでに亡くしており、夫にとっては義母がたった一人の
 肉親だ。
 義母が様子を見に家に来てくれた。
 私は正直、この義母とはソリが合わなかった。表面は合わせているが、言いたい事言いたい放題言ってく
 れる。距離を置きたいのにその間の境界線を土足で踏み荒らすようなことも平気なのである。
 本人に悪意がないから、余計に始末が悪い。
「まーまーまー! 本当によかったこと、里子さん」
 リビングに通され、席につくなり義母はよくある田舎のおばさん口調で立て板に水。
「跡取りはもォあきらめていたのよ。あなたち犬なんて飼いだしてしまうしねー」
 犬なんて、ですって。
 私は思わず視線が鋭くなるのを感じた。
 ユウはそんな軽い気持ちで引き取った子じゃないわ。
 しかし、面と向かってそんなこと言えるだろうか。
「ねっ。体にさわるんじゃないの、ペットって。犬の毛とかも不衛生だし、赤ん坊が生まれる前にどこかに」
「ユウは長男だよ!」
 夫の語調に義母はたじたじする。なにか言いたげに口を開くので。
「オフクロ! ユウはどこにもやらないよ」
 さすがだわ。私は心の中で喝采していた。自分を育ててくれた年長者にびしっと言える勇気を持っている、
 この人と一緒になって正解だった。
 子供が授かって、改めてユウの存在を再確認した。
私たちの気負いをユウが消化してくれて、自然なリズムになれたから、だから……
赤ん坊も授かった。
きっと、そうなんだ。
それにこのコは一人じゃない。
きょうだいが出来たんだもの。


赤ん坊のために、いろいろな準備をはじめた。
 絵本を数冊。
 ガラガラにおしゃぶりにぬいぐるみ。
 まだ早いというのに、夫は自転車まで買って。
 私は編物。
 すぐ大きくなるから、ちょっと大きめのソックスを編んで。
 ユウは日に日に大きくなっていく私のお腹を見て、不思議そうにくうくう鳴いている。
 そして真美の誕生。
 ユウはとても利口な犬で、生まれた娘に対して嫉妬もせず、むしろいつも守る立場にいるのが微笑ましか
 った。
 たとえば、真美が突然駆け出して、庭の外に出ようとすると、ユウがスカートの端を噛んで引き戻したり。
 おままごとで「パパの役」を演じたり。
 ボールを取ってくるときだって、飛び出さないようにぴったりあとをくっついて。
「見て見て、お父さん! ユウはああしてずっと側を離れなのよ」
 私が夫にそう言うと、
「真美の専属ボディー・ガードか! 頼もしいな」
 夫も笑顔で答える。
 だから、洗濯物を干したり、食事を作ったり、あるいは町内清掃のときだって、安心して外に出る事がで
 きる。
 ユウはどんどん大人になった。
 真美と一緒に大人になった。
 みんな、それで幸せだった。


 私たちの家族写真は四人に増えた。
 近くの川辺で花火もしたっけ。
 ちょっと足を伸ばして武蔵野にも行った。
 キャンプも。
 海水浴も。
 そして、七五三まで、ユウと一緒。
 幼稚園や学校に行ってた最初のころは、さびしがっておんおん鳴いてたっけ。
遊園地のユウと、頬を舐められているアイスクリームを手にした中学生の真美の写真もある。
 当たり前の光景として……
 ユウが、いた。


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